マネジメントしないのにJリーグで最強…最多5度の優勝監督の「底上げではなく天井を上げる」発想(プレジデントオンライン)
41 分前

サッカーJ1リーグ史上最も優勝している監督、鬼木達。川崎フロンターレの監督としてリーグ4度の優勝を果たした後、昨年は鹿島アントラーズに移り、就任1年目でJ1制覇を成し遂げた。なぜ鬼木監督は、こんなに勝てるのか。『嫌われた監督』で非情なまでに勝ちに徹する中日・落合博満監督の実像を描いたノンフィクション作家・鈴木忠平が、日本サッカー最強の“優勝請負人“のマネジメント哲学に迫る――。(前編/全2回)
■10度目のW杯の熱狂の中、気づいたこと
今年は夏があっという間に過ぎ去ったような気がする。おそらくサッカーワールドカップのためだ。
世界の数十億人が視聴すると言われるメガイベントが6月末に開幕すると、私はアラームをセットしていないのに、きっかり未明に目が覚めるようになった。テレビ画面の前へ座るまでには体温も脈拍も平常値を突破していた。そして、朝の静かなリビングでひとり叫びを上げた。
締め切りは頭にちらついてはいるものの、どのみち、その日の試合を見た後でなければ原稿も進まないのだからと割り切って、次の試合へハシゴする。
やがて太陽が西へ向かい始める頃、慌てて机に向かい、24時間の短さを呪いながら鉛筆を握る。そんな日々だった。
長くプロ野球の現場を生業(なりわい)にしているが、もともとサッカー少年だった私は、プライベートではフットボールとともに生きている。世界中の多くの人がそうであるように、4年に一度のこの悩ましくも幸せなひと月を全身で享受している。
初めて釘付けになったのが中学生の頃の1990年のイタリア大会だったから、かれこれ10度目となる祝祭に浴しながら、ひとつ気付いたことがあった。
コーヒーカップ片手に画面と向き合う90分間のうち半分ほどは、私はピッチの外にいる人物のことを考えているのだ。スーツやジャージ姿のその人たちはボールには触れることなく、それでいてプレーヤーたち以上に感情を露わにしている。
それぞれのチームにたった1人だけしかいない「監督」という人種である。
■日本サッカー史上、最も勝っている監督
もちろん、各国のスターたちが繰り広げるピッチ上でのぶつかり合いや、芝の上を滑っていくようなドリブルやパスワークに目を奪われてはいる。だが、何かが起こるたび、私の意識はやはりサイドラインの外に立っている人物に向けられる。
今、何を考えているのか。
なぜ、あのプレーヤーをピッチに立たせたのか。そしてベンチへ下げるのか。
ハーフタイムに、どんなことを伝えたのか。
そもそも、どういう人生を歩んできて、その道のりはこの人の決断にどんな影響を与えているのか。何を疑って、何を信じる人なのか。なぜ昨日は勝者となり、今日は敗者となったのか――。
そんなことをあれこれと妄想している。
歳のせいかもしれない。あるいは職業病なのかもしれない。ただ、世の多くの人たちも同様の関心を抱いていることは間違いないだろう。でなければ、日本代表も含めて各国の監督が下した決断に対する議論が、インターネットやソーシャルメディア上であれほどさかんに飛び交うことはないはずだ。
私は無意識のうち、監督と呼ばれる人たちに自己投影していたのかもしれない。国の代表に選ばれるほどのプレーヤーたちに接点を見つけるのは難しくても、思考と言葉で戦う監督には、わずかながら自分を重ねることができる。
なぜなら、社会を生き抜く上では誰もが少なからず自分の人生をマネジメントし、日々、自らに対して決断を下しているからだ。
その人を見ているようで、じつはその人を通して自分の生き方を考えている。舵取りを任された者の決断と逡巡と、その末に分かれる明と暗とに、人生へ通じる勝利の法則のようなものを見つけようとしているのかもしれない。
そんな私の頭には大会中ずっと、ひとりの監督のことが浮かんでいた。その人はワールドカップには出ていなかった。それでも画面に映っている、どこかの国の監督とは別に、あの人ならどう決断するだろうか、と思い浮かべていた。ある意味、私の中で最大の投影対象であると言えるのかもしれない。
鬼木達(とおる)。
日本のサッカー史上、最も勝っている監督である。
サッカーJ1リーグ史上最も優勝している監督、鬼木達。川崎フロンターレの監督としてリーグ4度の優勝を果たした後、昨年は鹿島アントラーズに移り、就任1年目でJ1制覇を成し遂げた。なぜ鬼木監督は、こんなに勝てるのか。『嫌われた監督』で非情なまでに勝ちに徹する中日・落合博満監督の実像を描いたノンフィクション作家・鈴木忠平が、日本サッカー最強の“優勝請負人“のマネジメント哲学に迫る――。(前編/全2回)
■10度目のW杯の熱狂の中、気づいたこと
今年は夏があっという間に過ぎ去ったような気がする。おそらくサッカーワールドカップのためだ。
世界の数十億人が視聴すると言われるメガイベントが6月末に開幕すると、私はアラームをセットしていないのに、きっかり未明に目が覚めるようになった。テレビ画面の前へ座るまでには体温も脈拍も平常値を突破していた。そして、朝の静かなリビングでひとり叫びを上げた。
締め切りは頭にちらついてはいるものの、どのみち、その日の試合を見た後でなければ原稿も進まないのだからと割り切って、次の試合へハシゴする。
やがて太陽が西へ向かい始める頃、慌てて机に向かい、24時間の短さを呪いながら鉛筆を握る。そんな日々だった。
長くプロ野球の現場を生業(なりわい)にしているが、もともとサッカー少年だった私は、プライベートではフットボールとともに生きている。世界中の多くの人がそうであるように、4年に一度のこの悩ましくも幸せなひと月を全身で享受している。
初めて釘付けになったのが中学生の頃の1990年のイタリア大会だったから、かれこれ10度目となる祝祭に浴しながら、ひとつ気付いたことがあった。
コーヒーカップ片手に画面と向き合う90分間のうち半分ほどは、私はピッチの外にいる人物のことを考えているのだ。スーツやジャージ姿のその人たちはボールには触れることなく、それでいてプレーヤーたち以上に感情を露わにしている。
それぞれのチームにたった1人だけしかいない「監督」という人種である。
■日本サッカー史上、最も勝っている監督
もちろん、各国のスターたちが繰り広げるピッチ上でのぶつかり合いや、芝の上を滑っていくようなドリブルやパスワークに目を奪われてはいる。だが、何かが起こるたび、私の意識はやはりサイドラインの外に立っている人物に向けられる。
今、何を考えているのか。
なぜ、あのプレーヤーをピッチに立たせたのか。そしてベンチへ下げるのか。
ハーフタイムに、どんなことを伝えたのか。
そもそも、どういう人生を歩んできて、その道のりはこの人の決断にどんな影響を与えているのか。何を疑って、何を信じる人なのか。なぜ昨日は勝者となり、今日は敗者となったのか――。
そんなことをあれこれと妄想している。
歳のせいかもしれない。あるいは職業病なのかもしれない。ただ、世の多くの人たちも同様の関心を抱いていることは間違いないだろう。でなければ、日本代表も含めて各国の監督が下した決断に対する議論が、インターネットやソーシャルメディア上であれほどさかんに飛び交うことはないはずだ。
私は無意識のうち、監督と呼ばれる人たちに自己投影していたのかもしれない。国の代表に選ばれるほどのプレーヤーたちに接点を見つけるのは難しくても、思考と言葉で戦う監督には、わずかながら自分を重ねることができる。
なぜなら、社会を生き抜く上では誰もが少なからず自分の人生をマネジメントし、日々、自らに対して決断を下しているからだ。
その人を見ているようで、じつはその人を通して自分の生き方を考えている。舵取りを任された者の決断と逡巡と、その末に分かれる明と暗とに、人生へ通じる勝利の法則のようなものを見つけようとしているのかもしれない。
そんな私の頭には大会中ずっと、ひとりの監督のことが浮かんでいた。その人はワールドカップには出ていなかった。それでも画面に映っている、どこかの国の監督とは別に、あの人ならどう決断するだろうか、と思い浮かべていた。ある意味、私の中で最大の投影対象であると言えるのかもしれない。
鬼木達(とおる)。
日本のサッカー史上、最も勝っている監督である。
■なぜこれほど勝てるのか
その人に会えることになったのは、ワールドカップが終わって10日ほどが経った週半ばの午後だった。私は東京駅発の長距離バスに揺られ、東関東道を北上していた。編集者のK氏と鹿島アントラーズの広報担当者のおかげで、鬼木にインタビューができることになったのだ。延々と続く変わり映えのしない高速道路の景色、も退屈でなかったのは、おそらく昂(たかぶ)っていたからだ。
茨城県南東部沿岸の鹿島市、広大な敷地を誇るクラブハウスに着くと、グラウンド脇の建物に案内された。この日は新しいシーズンが開幕する前の練習日だった。鬼木はトレーニングを終え、軽いランチを取ってからここへやって来るという。
私はその静かな部屋で、道中から続いている想像を巡らせた。
この国で誰よりも勝っている監督はどんな空気を発散しているだろうか。どんな言葉を用いる人だろうか。
鬼木はこの鹿島アントラーズでプロサッカー選手になった。32歳で引退して指導者の道に入ると、43歳で川崎フロンターレの指揮官となった。そして就任1年目でリーグを制したのを皮切りに次々とタイトルを獲得していく。2025年に古巣・鹿島の監督に就任すると、やはり優勝を果たし、通算5度のリーグ制覇は歴代最多、指導者として鮮やかすぎるキャリアである。
鬼木はなぜ、これほど勝てるのだろうか。いつもは緊張で少し憂鬱になる取材前の時間が高揚感とともに過ぎていった。
やがて部屋のドアが静かに開いて、トレーニングウェア姿の、よく日に焼けた人物が入ってきた。向かいの椅子に座った鬼木は想像していたよりも穏やかな表情をしていて、近寄りがたさを感じさせなかった。そして、あなたはいったい、どんな方法でチームをマネジメントしているのかと前のめりに問う書き手に、こう言った。
「そもそもマネジメントをしようと思ってやっていないので、そういうことで悩んだことがないんです。組織をしっかりというより、個人個人が楽しくやれればいいなと。
そう言うと変な表現かもしれないですし、もちろんサッカーでは、最後はチームのためという部分はあるかもしれないですけど、自分はまず1人ひとりが自分のプレーをすることに集中して、個人が成立してくれていればいいんです。それを最後、ひとつにするのが自分の仕事かもしれない。
そこまではもう、それぞれがどんどん伸びていってくれという感じでやっています」
■メッシが守備ばかりしてたら面白くない
私は呆気に取られていた。てっきりキャリアの中で練り上げてきたマネジメント論やチーム操縦術の話が出てくるのかと思っていたからだ。
そんな私を見て、鬼木は少し笑った。
「もちろんチームが勝つことは、みんなの目標であり、自分自身も嬉しいことだけど、でも例えば、アルゼンチン代表の試合を見に行って、メッシが守備だけしていて、メッシがメッシじゃなかったら面白くないと思うんです。仮にアルゼンチンが勝ったとしてもです。
だからやっぱりアントラーズが勝つこと自体は僕も嬉しいですし、勝利に関してはおそらく自分が一番負けず嫌いというか、そういうところはあると思っていますけど、でも、それ以上に、この選手はどういうプレーをするのか、それが分からなかったら面白くない。それでは意味がないというか、そもそも個人が成立していないと勝利の確率も上がっていかないかなと思うんです」
たしかに川崎時代から、鬼木が率いるチームを見ていて感じるのは規律と自由とが同居していることだ。組織と個人と言い換えることもできるだろう。
例えば、家長昭博という選手がいた。
ユース年代から突出した才能を認められていて、18歳でトップチームデビューし、A代表にも呼ばれた。だが、大阪の名門クラブでも、地方の中堅クラブでも、スペインでも、どこへ移っても余すところなく才能を発揮できているようには見えなかった。
そんな家長が30歳にして鬼木の率いるフロンターレへ移籍すると、途端に自分の居場所を見つけたかのように個性を解放し始めた。時間とスペースがないピッチ上で、彼は誰よりも長くボールをキープし、時間を止めることができる。その突出した個性が、チームが勝つためのプレーとして機能していた。
たいていのチームがどちらかを諦めざるを得ない組織と個人の融合、その裏にあるのがまず個人を成り立たせるという考えなのかもしれない。
■底辺を上げるのではなく、天井を上げる
「彼(家長)の場合も、あのチームの枠に落とし込んでいこうという頭はなかったかもしれないです。やっぱり彼の良さが突き抜けていって、それがチームの基準になっていくことのほうがいいんです。彼が一番上手いのであれば、こっちとしては『いや、もっともっと上手くなってくれよ』と求めます。
この間も、チーム内で話したんですけど、上手いやつはもっと上手くなる。走れるやつはもっと走れるようになっていく。身体の強いやつはもっともっと強くなっていく。サッカーの上手さだけではなく、さまざまな部分で上げていく。そうすることでチームの大きさってどんどんどんどん大きくなっていくと思います」
メッシはひたすらメッシらしく――その考えは鬼木の場合、どの選手にも当てはまるということだろうか。
それから鬼木は両手で小さな四角をつくった。
「僕の場合も同じことで、監督の発想がこれくらいであれば、どんなにいい選手がいても、この枠の中で収まってしまいますから、自分自身も発想を尽くしていく。もしくは選手から学ぶこともあります。
底上げという言葉は一般的には下のほうの人たちを上げていくイメージですけど、僕は上が上がれば勝手に全体が上がっていくというか、むしろ上を上げていかないと底上げはできないと思っています。天井が決まっていたら。それ以上はもういけないですから」
マネジメントをしない。
個性の輝きや個人の楽しさが最優先で、その後に組織がある。
底辺を上げるのではなく、天井を上げる。
インタビューを初めて10分と経たないうちに、事前に想像していた鬼木のイメージは覆されていた。
そして、日本で最も勝っている監督は続く問いにも意外な答えを返してきた――。
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鈴木 忠平(すずき・ただひら)
ノンフィクション作家
1977年千葉県生まれ。日刊スポーツ新聞社、文藝春秋Number編集部を経てノンフィクション作家に。2022年に『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋刊)でミズノスポーツライター最優秀賞、大宅壮一ノンフィクション賞、本田靖春ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞と史上初めてノンフィクション賞四冠を受賞。『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋刊)では将棋ペンクラブ文芸部門大賞を受賞した。
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