センチュリーというクルマの「生き様」――伝統と聖域を打ち破り、トヨタの頂点であり続けるための再起(東洋経済オンライン)
45 分前

トヨタ「センチュリー」は1967年、トヨタグループ創始者・豊田佐吉の生誕100年を記念して産声を上げた。このクルマは、単なる豪華な移動手段ではなかった。
それは、敗戦の焦土から血を吐く思いで立ち上がった日本という国家が、自らの尊厳と技術を世界に証明するための「走る誇り」そのものだった。
60年代初頭、戦後の日本は奇跡的な経済復興を遂げつつあったが、道路を行き交う最高級車といえば、いまだキャデラックやロールス・ロイス、メルセデスといった欧米の輸入車ばかりだった。国の賓客を迎えるときも、財界の巨頭が動くときも、日本の足元を支えていたのは外国車だった。
トヨタ「センチュリー」は1967年、トヨタグループ創始者・豊田佐吉の生誕100年を記念して産声を上げた。このクルマは、単なる豪華な移動手段ではなかった。
それは、敗戦の焦土から血を吐く思いで立ち上がった日本という国家が、自らの尊厳と技術を世界に証明するための「走る誇り」そのものだった。
60年代初頭、戦後の日本は奇跡的な経済復興を遂げつつあったが、道路を行き交う最高級車といえば、いまだキャデラックやロールス・ロイス、メルセデスといった欧米の輸入車ばかりだった。国の賓客を迎えるときも、財界の巨頭が動くときも、日本の足元を支えていたのは外国車だった。
■「未踏への挑戦」のはじまり
「いつまで舶来の豪華車に頭を下げ続けるのか。日本人の手で、日本の美意識と技術の粋を集めた、世界に比肩する最高峰のサルーンを創らねばならない」
その悲願を背負ったのが、初代クラウンを生み出した伝説の主査・中村健也氏と、当時トヨタ専務であった若き日の豊田章一郎氏だった。2人が目指したのは、欧米の真似事ではなかった。欧米の華美で威圧的なデザインに対抗し、彼らが考えたのは「日本の精神文化」そのものだった。
杼(ひ=シャトル)から生まれた「几帳面」、フロントマスクに輝く「平等院の鳳凰」、そして「未踏への挑戦」だ。
当時としては異例のエアサスペンションやモノコックボディ、アルミブロックV8エンジンなど、未踏の新技術を果敢に導入した。自動車メディアから「伝統的な高級車に新技術はアキレス腱になる」と叩かれようとも、2人はひるまなかった。
章一郎氏は、関東自動車(現・トヨタ自動車東日本)の生産立ち上げの現場に泊まり込み、作業着を泥と油にまみれさせながら、職人たちとともにハンマーを振るい、手作業でボディの歪みを正したという。
センチュリーとは、戦後日本の意気地と、エンジニアたちの魂の結晶として産声を上げたのだった。
大量生産され、数年乗られては下取りに出され、流行の移り変わりとともに消費されていく一般的な乗用車。しかし、センチュリーは、そもそも「耐久消費財」という枠組みで作られてはいなかった。
乗る人の品格やステータスを象徴するクルマが、3〜4年ごとの軽薄なフルモデルチェンジで陳腐化してはならない。変わらない安心感と格式を保ち続けることこそが、センチュリーに課された絶対の使命だった。
ちなみに「クラウン」が3代目から10代目へとめまぐるしく世代交代を繰り返す傍らで、初代センチュリーは67年から97年までの実に30年間、1度もフルモデルチェンジを行わなかった。
ただ、エンジンや足回りなどの中身は時代の要請に合わせて磨き上げられた。要するに「変えてはならない骨格」を守るために「変えるべき中身」を愚直に進化させ続けた30年だったのだ。
■2代目、そして現行3代目へ
97年、バブルの熱狂が去った日本に現れた2代目センチュリーは、単なる継承だけではなく「驚き」もあった。見た目は初代の富士山を思わせる端正なシルエットを受け継ぐもモダン化。ボンネットの下には、日本車史上最初で最後となる「5.0L V12エンジン」を搭載していた。
「要人を乗せて走るクルマが、万が一にも道端で立ち往生することは許されない」
開発陣は、12気筒のうち片側の6気筒系統が電気的・機械的に完全停止しても、残る6気筒で平然と走り続けられる左右独立2系統システムを構築。偏執的な信頼性を技術でクリアさせた。
クラウンがさらに10代目から14代目へと世代を重ねる20年の間、2代目もまた基本骨格を変えることなかったが、初代と同じく進化は行われ、日本の屋台骨を支え続けた。
そして2018年、豊田佐吉生誕150年に合わせて登場したのが3代目だ。
環境性能に応えるべく、V12からV8ハイブリッドへとパワートレインを刷新したが、熟練工が丸2日かけて研ぎ出しを繰り返す漆黒の「鏡面塗装」や、金型彫りだけで1カ月半を費やす江戸彫金の鳳凰エンブレムといった「匠の技」を極限まで研ぎ澄ませた。
しかし、この偉大すぎる歴史こそが、トヨタ社内に分厚い壁を作り上げていた。 センチュリーは誰も手を触れることのできない「聖域」となっていたのである。
「私の中でのセンチュリーは、どこまでいっても『名誉会長(章一郎氏)のクルマ』でした」
そう、豊田章男氏は語る。父・章一郎氏が生涯をかけて愛し、泊まり込みで創り上げたクルマ。その情念の深さを誰よりも知る息子だからこそ、「自分が社長になっても、軽々とセンチュリーには乗れないし、口を挟むべきではない」という強い遠慮と躊躇を抱き続けていたのだ。
■ショーファーカーの品格
事実、章男氏が社長時代に好んで自らの足としたのは、センチュリーではなく、「アルファード/ヴェルファイア」だった。約20年前、まだミニバンにショーファーカーの地位はなかったが、章男氏の姿を見たトップたちがこぞってミニバンを採用。今ではしっかりと市民権を獲得している。
しかし、現場を歩く章男氏の耳に、こんな声が届いた。「ミニバンは最高に快適だ。しかし、いざオフィシャルな場へ乗り付けるときには乗っていけず、結局セダンに乗り換えている」と。
ショーファーカーとは、ただ快適な移動オフィスであればいいわけではない。クルマから降り立つ主人の背筋を伸ばし、その品格と誇りを映し出し、美しい所作で主人をより輝かせる「鏡」でなければならない。
かつて、トヨタの本社前には役員たちが乗る黒塗りのセンチュリーがズラリと並んでいたが、ほぼミニバンへと置き換わっていた。そして、世間からは「センチュリーって、まだあったっけ?」と忘れ去られようとしていた。
3代目センチュリーの開発時、開発陣から意見を求められた章男氏は、こう答えた。
「センチュリーは名誉会長のクルマなので、通訳はしてあげます。でも、私に話を聞きたいなら『僕が乗ってもいいセンチュリー』を提案してください」
その問いかけに開発陣がまず応えたのが「センチュリーGRMN」だった。ショーファーカーの静寂にドライバーズカーの熱情をプラス、つまり豊田章男ではなくモリゾウに向けた提案だった。しかし、章男氏はこれでよしとしなかった。
「本当に現代のリーダーが乗りたいと思える、新しいセンチュリーとは何なのか」
そこで自らの手でセンチュリーの命を未来へつなぐ覚悟を決めた。それが新たなボディタイプのセンチュリーだった。トヨタの公式的にはセダンが「センチュリー・セダン」、このモデルが「センチュリー」と名乗るが、ここでは便宜上シン・センチュリーと呼ぶ。
■SUVのようなセンチュリーが誕生したワケ
「センチュリーで挑戦する人なんて、誰もいない。最初は僕だって『このクルマは挑戦できない』と思っていました」
そんな章男氏の背中を押したのは、クラウンの維新、「カローラ」のリブランディング、「ランクル250」の原点回帰と、自らが主導してきた「トヨタの改革」の歴史そのものだった。どれほど歴史ある看板であっても、守りに入った瞬間に息絶える。
「生まれ変わることでしか、歴史は紡げない」
開発陣が集結し、行動を起こした。パッと見ると流行りのSUVに見えるかもしれないが、開発陣が目指したのは「後席のお客様の新しいニーズを突き詰めた、現代の最高峰ショーファーカー」であった。
開発は初代以上に「未踏への挑戦」だった。1つ目は高級車の定番となる「縦置きFR」をあえて捨て、横置きレイアウト(GA-Kベース専用骨格)を採用したこと。
縦置きではエンジンが室内を圧迫し、運転手が後退して貴重な後席スペースを奪う。そこですべてを後席最優先で設計し、全長の制約の中で53度まで深く倒れ込むフルリクライニングシートを実現させた。
2つ目は静寂を担保する「キャビンセパレーション」だ。一見2BOXに見えるが、客室とラゲッジの間に分厚い隔壁を打ち込み、巨大なVブレースで補強。最新のセダンをも凌駕するねじり剛性と圧倒的な静寂を手に入れた「5ドアのセダン構造」だ。
3つ目はEPS(電動パワーステアリング)や4WS(4輪操舵)、AVS(アダプティブバリアブルサスペンションシステム)を駆使して横Gを打ち消す制御、「リアコンフォートモード」の採用だ。
「プロの腕を疑うようで失礼ではないか」と躊躇する開発陣に、現場の運転手たちは「僕たちだって人間です。お客様を起こさずに済むなら、これほどありがたい武器はない」と即答。後席だけでなく、ステアリングを握るショーファーにも温かな心配りを忘れない。それこそが中村健也氏の時代から続く「人中心」の血脈だった。
試作車がお披露目された商品化決定会議。それを見た章男氏や役員たちから出た言葉は、「いいSUVができた」ではなかった。
「ああ、センチュリーができたな」
誰一人として、それをSUVとは呼ばなかった。姿形は変われど、そこに宿る気品と緊張感は、紛れもなくあのセンチュリーそのものだったからである。
ちなみに章男氏は、このクルマの開発ではステアリングを握る「マスタードライバー」にはなっていない。その代わりに自らを「マスターパッセンジャー」と位置づけ、終始後席に座り、ドアの開き方、降り立つ足の運び、車窓からの見え方に至るまで、後席からの視点でクルマを磨き抜いたそうだ。
■1台1台仕様が異なる「時価・応談」のクルマづくり
愛知県の田原工場に設けられた専用ライン。そこには無人搬送車もベルトコンベアもない。厳選された42名の“匠”が、手作業で1台に5時間以上をかけ、パネルの歪みを指先で感じ取り、ミクロン単位でボディを研ぎ澄ます。
月産わずか30台。 2500万円という価格はあくまで「基本仕様」に過ぎず、顧客との対話によって仕様も価格も変わる「時価・応談」のものづくり。
世界中に均質で高品質なクルマをタイムリーに届ける「カイゼンと大量生産」で頂点を極めたトヨタが、その真逆にある「たった1人の顧客のために、時間と手間を惜しみなく注ぎ込む少量フルオーダーメイド」という、最も不慣れで泥臭い挑戦へ身を投じたのだ。
さらにこれまでのセンチュリーは、ごく少数が一部地域へ輸出されることはあったが、基本は「日本専用車」だった。だが、シン・センチュリーは、最初から世界市場を見据えて開発され、海外での販売という挑戦も始めた。
そして今、センチュリーの生き様は、1車種のフルモデルチェンジという枠組みすら飛び越えようとしている。 トヨタでもない、レクサスでもない、独立した最高峰ブランドへの昇格。掲げられた旗印は「One of One」。
そんな最新のセンチュリーは、用途やシーンに合わせた「3つの着こなし」を提案する。セダンは伝統のFRと格式を守り抜き、国家の威厳を体現する至高の正装で「タキシード」のような存在。シン・センチュリーは広大な機能性と品格を両立し、世界のビジネスの最前線で戦うリーダーの旗艦であり「ビジネススーツ」のような存在。
そして、ジャパンモビリティショー2025で示されたクーペは、現時点では提案に過ぎないが、西陣織の室内と変則観音開きドアを纏い、パーソナルな歓びと究極の寛ぎを融合させた新次元の華やぎであり、「パーティドレス」のような存在だ。
■パワートレインは未発表でも
筆者はクーペの姿を前にしたとき、視線はその長いボンネットと、刻まれた2つのエアアウトレットに引き寄せられた。フロントアクスルからAピラーまでの伸びやかなプロポーションは、シン・センチュリーの横置きパッケージとは明らかに異なり、縦置きマルチシリンダーの気配を漂わせている。
パワートレインについて問われた開発陣は、「皆さんで想像してみてください」と意味深な笑みを浮かべるのみ。だが、そのシルエットが何かを語りたがっている。マルチシリンダーの咆哮なのか、それとも次なる100年を見据えた水素を用いた革新の電動化ユニットなのか。長いボンネットの奥には、エンジニアたちの想いとロマンが満ち満ちている。
日本でしか作れないモノがある――。
この世界にひとつを、この国から――。
戦後の焼け野原で、中村健也氏と章一郎氏が欧米の豪華車を見上げながら誓った「日本の意気地」。耐久消費財ではないと定めて30年の熟成を重ね、Aタイプという熱きドライバーズカーの遺伝子をも内包していた初代の誇り。
その血脈を受け継ぎながら、父が遺した聖域という名の殻を打ち破り、「時代とともに変わる勇気」を注ぎ込んだ章男氏。
姿かたちが変わっても、そこに流れる血はまったく揺らいでいない。過去の成功体験にしがみつくことをやめ、主人の生き方に寄り添い、自らの姿を変え続けること。 それこそが、センチュリーというクルマの、不器用で、気高く、美しい「生き様」なんだと筆者は考える
復活の炎を象徴する鮮烈な輝きを纏い、解き放たれた鳳凰は、日本のものづくりの魂を乗せて、次の百年(The Next Century)へと力強く羽ばたきはじめている。
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